【高松城の復元を進める市民の会】は、平成21年11月に設立され、NPO法人を経て、現在は、任意団体としての「高松城の復元を進める市民の会」として日々その活動を継続しています。
私たちは、団体の目的である高松城天守の復元に向けて高松市など行政機関への働きかけはもとより、地域の皆さんに高松城天守を現代に再現する意義をお伝えすることを通じて、高松市民として深く郷土の歴史を学び、我が街高松のさらなる発展を希求する団体です。
現代人がイメージする「天守」は戦国時代以降の城郭の中心に建てられた象徴的な建造物です。
日本の歴史では、豊臣氏滅亡後の1615年に徳川幕府により出された一国一城令により、幕府の許可なく、城の改修などが出来なくなり、天守も同様に新たに建築することが禁止されました。日本最大の城郭である江戸城ですら、明暦の大火の1657年以降、天守は存在しません。つまり、「天守」が日本史上しきりと作られたのは、それまでのわずか数十年ほどの間と言うことになります。
古代より無数の城郭が作られていたにもかかわらず、お城と言えば「天守」を念頭に置く人が多いのは、現存している城郭が戦国時代以降、江戸時代初期に形成されたものが多数を占めており、天守が大規模で豪壮華麗な様式から城の個性をもっともよく表現する「象徴」・・つまり城の顔として存在したからです。
現在においても、城跡が町の中心にある場合が多いのは、前時代の権力者であった幕府や大名の所有地が明治政府に接収され国有地となり、広大な空間が国有地として存在したために市街地形成が容易だったからにほかなりません。「丸の内」(城の中という意味)に国の役所が多いのもその名残です。
ただ、ここ高松において旧高松城の価値が高いのは、高松というという都市が、高松城の築城により始まったという点に尽きるからと思われます。まさに築城が我が街のオリジンそのものなのです。
高松城が出来る前のこのあたりは、野原の庄と呼ばれ「往古ヨリ河水流久ク海中ニ入リテ,地ヨリ八町沖ニ白沙集リ,須賀(砂州)ヲ生ジ」(南海通記 讃州新高松府記)と表現されており、葦が生い繁る砂州に、漁村が点在するうら寂しい土地が想像できます。
豊臣秀吉の四国制圧の後、1587年(天正15年)讃岐国の領主となった生駒親正によってここに高松城が築かれ、それを中心として城下町が形成された結果、高松という都市が生まれたのです。我が街を産み育てた城の象徴を復元するのはむしろ自然だと思われます。
高松城の天守は、独立式層塔型3重4階、地下1階 建物部分の高さは約26.6㍍と推定され、現存天守では、姫路城に次いで高い建物です。
高知城天守が約18.6㍍、丸亀城が約14.5㍍、松山城が約20㍍であることを考えても、四国最大の天守となります。「大きいことは良いことだ」というのは昭和の死語ですが、なんと言っても、JR高松駅・高松港という高松の玄関口のそのど真ん中にこんな巨大天守が出現すると考えたらいかがでしょうか。わくわくしませんか。
我々が心血を注いだ天守復元10万人署名が功を奏したかどうかはわかりませんが、令和2年に文化庁は元々ハードルが高くて容易に認められなかった「歴史的建造物の復元」について新しい基準を示しました。
すなわち、従来の「復元」より要件を緩めた「復元的整備」という概念が作られたのです。簡単に言うと本来の意匠などを示す具体的な資料が見つからなかった場合でも、一定の要件を満たす場合には、復元を認めるというものです。
令和4年3月、高松市は「史跡高松城跡保存活用計画」を策定し、大西秀人市長ご自身が文化庁を訪問し、その計画の認定を要望したところ、本年2月に文化庁によりその計画が認定されました。いよいよ、行政的にも復元への道筋が具体的に明らかになったと言うべきでしょう。
今後も高松城の復元を進める市民の会は、市民の皆様と手を携え、我が街100年の大計ともいうべき高松城天守復元に邁進して参ります。
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